史書の記載によると、八極拳門の始祖呉鐘は、康煕五十一年
(1712年)の生まれとなっている。呉鐘、字は弘声、回族で、滄州孟村鎮の人(今の河北省孟村回族自治県)
である。雍正五年、呉鐘は一人の南方云游高人に、技撃の術を学び始め、雍正十三年(1735年)、芸業を功就させた。
乾隆初年(1736年)、燕京(今の北京)の恂勤郡王、愛新覚羅允禵は、呉鐘を召き芸技を競ったが、允禵は敗服し、呉鐘を師と拜した。呉鐘はこれによ
り、“神槍呉鐘”と誉め称えられ、名を成したのである。乾隆四十年(1775年)、呉鐘は故里に帰り、嘉慶七年(1802年)、享年九十歳で世を去った。
呉鐘は、故里に帰った後、武術を一人娘の榮と、族侄の濚および鐘毓の三人に
伝授した。濚の父呉希聖は呉鐘の族弟の血統にあたり、長子呉経、次子呉濚の二人の子を儲けたが、呉希聖は将にその次子呉濚を呉鐘の子として養子に
出し、鐘の芸業を継がせたのであった。
乾隆五十五年(1790年)、年老いた呉鐘(78歳)は、このすぐれた術が後世に伝わらず煙滅してしまうのを恐れて、習得した術を“八極拳”と名付け、
その子呉濚に八極拳譜を撰述させ、名を“呉氏八極拳”と定めた。かくして、ここに“八極拳門”は創設され開かれることとなったのである。
呉濚、字は輝廷(清の太学生)、姉の呉榮とともに、父の業を承けつぎ、開門して指導し、数名の八極拳名家を育てた。こ れより八極拳は滄県、南皮、塩山、慶云一帯に広く流伝され、武林界に“八極窩”の誉を受けるまでになった。呉榮は弟の呉濚が八極門を創立するのを助け、年 は三十歳を過ぎて海豊に嫁いだ(今の山東省慶云県海豊)。
民国十六年(1927年)になって、兵乱により、呉濚によって撰著された《呉氏開門八極拳秘訣之譜》は損傷したが、呉 濚の嫡孫呉会清(第五代伝人)は多くの門徒の協力の下に、民国十七年から二十五年(1928-1936年)にかけて、八極拳門譜を重修し、八極拳の継承、 推広と発展のために貴重な歴史と技術の資料を遺した。
呉会清の長子呉秀峰は幼い頃より父について八極拳術を習い、十八歳にして教え始めた。彼は衆家の長を広く取り入れ、八
極拳理論を充実させ、八極拳の発展のために、たゆまぬ努力を重ねて行った。
現在、呉秀峰の技術と理論はその子呉連枝、さらには孫の呉大偉へと受け継がれている。
(1997年作成/2000.6.23更新)