鉄獅子 開門八極拳を正当に受け継いで来たのは、壮国でただ一家だけである。呉鐘は武術を一人娘の榮及び 族侄の濚と鐘毓の三人に伝授したが、この三人のみが呉鐘の正式弟子として拳譜に記載されている。これが「呉氏八極」や「孟村八極」などと呼ばれる理由であ る。

 呉家の世系は八極のそれとは異なっている。呉家の一世は呉作栄と言い、元は安徽省に住んでいたが、明代の永楽年間に、 滄州、孟村、海豊の三カ所に分かれて移住した。その時、孟村に移住したのが、呉家の五世、呉賓賢である。呉家は元々漢族であったが、呉賓賢は妻の楊が回族 であったためイスラム教に改宗し、以降、孟村呉家は回族となった。

 呉濚、字は輝廷、八極門三世、呉家の世系では十三世である。彼の父呉希聖は呉鐘の族弟の血統にあたり、長子呉経、次子 呉濚の二人の子を儲けたが、呉希聖は将にその子呉濚を呉鐘の子として養子に出し、呉鐘の芸業を継がせた。呉鐘の三人の弟子の内、掌門人となったのが濚であ る。掌門人は一世に一人、最も実力の勝るものが選ばれる。彼は武術に優れていたのはもちろんのこと、清の太学生でもあったため、呉鐘の命により、初めて八 極拳譜を撰述した。彼は姉の榮とともに、開門指導して、数名の八極拳名家を育てた。これより八極拳は滄、南、塩、慶一帯に渉るに及び、広く流伝され、武林 界に独立の派として立門したのである。
 呉濚の代に、呉家は前院と後院に分かれた。濚が後院で、同じく三世の鐘毓は前院である。呉家十四世後院、呉坤及びその子同雲、呉家前院の呉愷は共に皆、 濚の弟子であり、呉梅、呉連城は鐘毓に拜師している。また、この時代、羅疃村(現在、孟村回族自治県の一村)の李大中、張克明が拜師したことによって、孟 村以外にも八極拳が伝わることとなった。榮は弟、濚の指導を助け、三十歳を過ぎてから海豊(今の山東省慶云県海豊)に嫁いでいる。

 八極門四世の代では、掌門人となり得る人物が後院からは出なかった。そのため四世掌門人は、はっきりしていない。た だ、呉濚の伝は、前院の呉愷を経て、呉会清へと受け継がれており、おそらくは愷が四世掌門人ではなかったかと推測されている。拳譜によれば、愷は道光二十 五年(1845年)生まれ、十六歳で武術を始め、宣統三年(1911年)、享年八十六歳で世を去っている。呉会清の父呉宝章は呉家十六世後院、会清と共に 愷に学んだが、八極門五世掌門になったのは会清の方であった。

伝承系図

(1998.9.17作成/1999.3.9更新)


Copyright © 2008 Hakkyokukensya All Rights Reserved.