文献*の検証と考察を経て、八極拳門は大略、以下のように形成されたと判断できる。

 北方八極拳門の創始人呉鐘は、字を弘声といい、回族で、清の康煕五十一年二月初六辰時(西暦1712年)、孟村鎮に生まれた。鐘は八歳で就学したが、人より聡慧で、十五歳で遂に書を棄て技撃を学び、昼夜練習して、寒暑の間はなかった。

 清の雍正五年(西暦1727年)のある日、鐘の所へ忽然と一人の南方侠客がやって来て、鐘は茶飯で款待し、語り合って意気投合した。そして武術に話が及ぶと、聞くものが皆、初めてのことばかりで、話が一致したので、試しに技藝を比べてみることになった。鐘は何度も試みたが、一度も勝つことはできず敗北した。侠客は以前から燕趙には慷慨の士が多いと聞いていたので、云游して賢者を探して此に来たと言った。鐘の忠誠を観て、願うなら異術を此に遺そうと、侠客は鐘の師事を許した。鐘が其の姓字を問うと、笑って答えなかった。
 同居すること三年。突然ある日、侠客は、汝は尽く異術を会得したので吾はこれで逝くと言った。鐘はその言葉を聞いて、三年もの間教えを受けたのに尊師の仙郷姓字を知らないのは恥ずかしいと言って泣いて拜むと、侠客は如何ともしがたく、全て“癩”の字を知る者は吾が徒であると言い残して、別れを辞げて去った。

 二年が過ぎ(雍正十年)、また一人“癖”と号する者が呉鐘を訪ねた。拳械で競い、鐘が敗北して拜師しようと希望すると、その者は、吾は汝に大槍の奥妙と拳法秘訣一巻を授けるよう師の命を受けたと言った。これより鐘の武藝は日ごとに精通し深まったのである。

 鐘は、浙江少林寺の、機械造りの山門には、木人、木猿や諸多の暗器が仕掛けてあり、武技を試すことができると聞いた。
 清の雍正十三年(西暦1735年)八月、呉鐘は浙江少林寺に身を投じ、三度山門を出入りしたが、何一つ身に付着するものはなかった。寺内の方丈と藝を較べたが、方丈は畏服し、寺を鎮守する欽差官は“神槍”と賞賛した。その時、武林の志士康大力、李章と遇い、友となって義兄弟の契りを結んだ。伝わる歌があり曰く:「神槍呉鐘は世に無双、提柳単刀に李章あり、徒手短打は康大力、武林三傑は威名が揚がる」。

 乾隆初年(西暦1736年)、康煕帝の十四子である恂勤郡王允禵は、名を慕い呉鐘に燕京で武を比べよと宣告した。鐘は殳(古い兵器の名称)の端に白い粉を塗り、つき刺すと王の眉にあたったが、王は気づかず、これは幻術だと疑ったので、改めて面糊を塗り、またつき刺して王の眉にあたったが、王はなお気づかず、驚き服して、遂に師事した。技が高妙であることは、王公大人に許与され、一時にして“神槍呉鐘”は広く流伝し、誉は京都に満ち、授徒は百五十余人までになったのである。

 乾隆四十年(西暦1776年)、呉鐘は故里に返り、母のそばで孝を尽くし、遂には場を設けて教えたが、郷里で学ぶ者は、なんと百里の外にまで及んだ。鐘は異術の終湮を恐れて、「呉氏八極拳門」を創立した。呉鐘の膝下には三名の弟子の記載がある:長女榮(後に代門に嫁いだ);族侄呉濚(孟村呉家後院);呉鍾毓(孟村呉家前院)。これより承前継後して、弟子に伝授し、八極門は広く流伝した。故に「孟村八極」、「呉氏八極」の説があり、八極門は中華武林に立門立戸しているのであって、滄、南、塩、慶にまで渉って、伝えられて今に至っている。呉鐘は清の嘉慶七年(西暦1802年)十月十五日に逝去、享年九十歳であった。

*『滄縣誌』および『河北省孟村鎮呉氏八極拳術秘訣之譜』

呉連枝著『八極拳歴史及理論的探討(一)』より翻訳整理
(1998.9.17作成/1999.10.6更新)


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